Ｓ……しょうこ Ｍ……みつき
Ｓ	涙を残しておこうって、思ったこと、ない？
Ｍ	しょうこさんが聞いた。
Ｓ	いつだったかな、泣きながら、私、思ったの。この涙は貴重だから、記念に残しておこうって。で、ハンカチを捜したの。買ったけどもったいなくて使えなかった上等のやつ。でも、いざというときにはなかなか見つからないのよね。やっと引き出しの奥に見つけた時には、涙はほとんど乾いてしまっていた。それでも目に当てると、少しだけ濡れたわ。
Ｍ	それって、なんの涙だったの？
Ｓ	さあ、…忘れちゃった。
Ｍ	言いたくないんだね。
Ｓ	ねえ、みつきはある？涙を残しておこうって思ったこと。
Ｍ	ないな。考えたこともない。そのハンカチ、今もある？
Ｓ	それがどこにしまったのか忘れちゃったの。でも、どこかにあるはずだわ。捨てるわけないもの。
Ｍ	捨ててなくてもどこにあるのかわからないんじゃ、ないのと同じじゃないかと思う。 しょうこさんは、整理がへただ。たんすの引出しにも、本棚にも、めちゃくちゃにものを詰めこんでいる。頭の中だってたぶんぐちゃぐちゃになっているに決まってる。 僕はしょうこさんの気まぐれな記憶のなかで、初恋の男の子に似ていたり、子供の頃飼っていた犬に似ていたり、行方不明の父親に似ていたりする。 しょうこさんの父親はしょうこさんが子供の頃に家出した。
Ｓ	ちょっと歯医者に行ってくるって、出ていったまま、とうとう帰ってこなかったの。 母親は私と兄さんを苦労して育てたあげく、病気になって、亡くなってしまった。
Ｍ	それなのに、父親に似た男と結婚したのが、まちがいのもとだったらしい。しょうこさんの夫も、また、出ていったまま行方知らずなのだ。 捜した？
Ｓ	連絡がないってことは、捜さないでくれって、ことじゃない？
Ｍ	でも、事故かも。
Ｓ	貯金通帳と印鑑を持って出て行ったのよ。 もう、ずっと前のことだわ。
Ｍ	しょうこさんは、思い出したように少し笑った。左手の薬指には銀色の指輪が光っている。
Ｓ	いろいろあって、今はこのお店をやっているってわけ。
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